仁鍼灸治療院(江戸川区・葛西)は、はりきゅう・マッサージ・スポーツマッサージ・リラクゼーションの鍼灸治療院です。
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J's diary(院長日記)
院長日記。不定期に
更新しています。
スタッフからコラム(不定期)
Field of dreams〜院長日記番外編〜
石岡院長の高校時代の野球の物語です。
番外編として新登場!!
EP-3 (2006/7/21)
 高校に入ってからの練習は、質・量ともに中学までとは比べものにならないくらい、凄まじいものでした。何といっても走ることの多さといったら「ここは陸上部?」と思うほどです。
 まず、練習前のアップを兼ねたランニングでも当初はついていけない新1年生が沢山いました。野球部には通称“ロード“と呼ばれる(1周8kmくらいでしょうか?)市内を回ってくる専用外周コースがありました。晴れの日でも週に2〜3回、雨でグラウンドが使えない日は必ずここを練習前に走りました。しかも30分以内の制限付きで、時間内に帰って来れなければもう1周です。練習中グラウンド内は常にダッシュ、練習の最後はやはりランニングかダッシュを行うのですが、例えば塁間(約30m弱です)や50m、100m走などを50本とか100本などです。

 野球部の名物は“ロード”のほかにも、隊列して声を出しながら延々と走る“行進”、そして“ダービー”というものがありました。

 梅雨時期の6月頃だったでしょうか…、“行進”でこんな事件がありました。
 その日は嫌に蒸し暑く、少しだらけていたのかも知れません。午前の守備練習で皆、連鎖するようにポロポロとエラーを連発していました。これが監督の怒りをかいました。
「お前ら!もう止めだ!全員で“行進”!」
 部員全員で隊列し、声を出しながらグラウンドをグルグルと回り始めました。いったいどのくらい走ったでしょうか…暑さもあり、ただ機械のように足だけが動いているといった感じですが意識は朦朧としてきます。その時、一人の3年生がこう言い出しました。
「俺はもうだめだ!気絶するのでよろしく!」
 K.I先輩です。Iは姓でなく下の名前です。少し変わった名前で(実名は明かせませんが)部員も監督もこちらで呼んでいました。(部は同姓がいる場合も下の名前で呼びます)
 しかし、この人が変わっているのは名前だけでなく、人間もかなり変わってました。(変人?)当時の寮長(現監督さんです)の娘さん(幼稚園生)にプロレス技をかけて喜んだり(もちろん手加減してですが寮長の奥さんによく「こら!I!と怒られてました」)、練習もどこか不真面目(!?)に見えてしまうのですが、でも野球のセンスは抜群で惚れ惚れとするくらいでした。この代の不動のセカンド、トップバッターで私も憧れていました。
 こんな人ですからあまり憎まれず、皆も「また始まったよ…」って感じです。“バタッ”と前のめりにグラウンドに倒れ、気絶したフリを始めました。

 その直後でした。突然のスコール!ベンチで見ていた監督が叫びました。
「おい午前終了!部室に戻っていいぞ!」
 皆は部室に戻りましたが直前に倒れた手前、Iさんはすぐに起き上がる訳にもいきません。私たちは部室から、監督はベンチで腕組みをしながらジッとIさんを見ています。そのうち、雨で身体が冷えて来たのでしょう…アンダーシャツの長袖をまくっていたIさんが倒れたまま、薄目でチラチラと監督を見ながら袖をゆっくり下ろし始めました。これには私たちも大爆笑です。
 ほどなくして監督が「おい!もういいぞ。」たぶん監督も分かっていたのでしょうね…

 もう一つの“ダービー”は私たちが最も恐れていたものです。
 ダービーは1塁線上(ホームからライトのポールまで伸びる線です)に部員全員が一直線に並び、合図とともに一斉に走り出し、レフトフェンスにタッチして元に戻るというものです。これも時間制限があり、一人でも遅れると1本に数えられません。これを10本とかやる訳です。1〜2本はクリアできても3本目くらいになると何人かは遅れ出します。こうなるともう絶対に終わらないので、エンドレス状態です。真夏のグラウンドで軽く40℃近くにはなろうかという中ではもう地獄で、部員全員が殺気立ってくるのが分かりました(笑)。
 “行進”や”ダービー”はもちろん毎日のメニューではありませんでしたが、こんな中で一人二人…と部員が減っていき、夏休みを終える頃に1年生は当初の約半分くらいになってしまうのです。

 私は昔から走ることが得意だったので、その辺りは問題がありませんでした。
 野球も自分でいうのは何ですが、中学までずっと4番で投手だったりしたので、高校に入っても「そこそこは…」くらいの自信が多少はありました。しかし、その根拠のない自信は入部してすぐ、いとも簡単に崩れ去るのです。
 上級生の中にはもちろん、同期の中にも「すごいな…」という選手が何人かいました。
 同期には、全国中学校軟式野球大会で準優勝した習志野市内の中学からそのメンバーが5人来ていました。ほかにも硬式リトルのALL JAPANで4番を打っていた経歴があり、後に我々の代の主将となるI.H君(私が一番仲の良かった友人です)や、ドラフトで当時のダイエー(現ソフトバンク)に指名され、卒業後にプロ入りした我が代のエースO.K君などがいたりとそうそうたるメンバーです。他の部員も(特に推薦組は)大抵はその中学のエースや4番で、まずはチーム内で彼らとの競争に勝たなければなりません。

 対戦相手にもトップクラスの選手達が大勢いました。引退までには数多く県内外の強豪校と試合をしましたが、中には後にプロ入りし活躍する人達もいて、そういった選手はやはり高校レベルでも頭一つ二つ抜けていました。
 ある日、茨城の強豪M戸商業を迎え練習試合を行った時のこと、私はその試合で雑用をしていたのですが、(1年生は交代でバットボーイなどをします)そこで度肝を抜かれるシーンを見ました。入部して間もない頃だったので、あの時のインパクトは今でも鮮明に覚えています。
 当時のM戸商の4番はその年の秋に西武ライオンズからドラフト1位で指名されるあの“M戸の怪童”デーブ大久保こと大久保博元選手です。
 その試合でデーブ選手はうちのエースから2打席連続で特大のホームランを打ちました。しかも2本ともライト方向です。前回も書きましたが、うちのグラウンドはライトも90m以上あり、しかも安全のため通常よりかなり背の高い防御ネットを張っていました。その上を、軽々と右打ちでオーバーフェンスする(デーブ選手は右バッターなので)桁外れのパワーと技術にとてつもない衝撃を受けました。
「凄い…」(打球を目で追いながら間違いなく私の口は開いていたと思います)

 部内でもそのプレーに憧れる上級生はいましたが、この時のデーブ選手には本当に驚きました。そしてある意味、そのレベル差にショックも受け…複雑な心境でした。
 改めて自分は今までいわゆる“井の中の蛙”で周りのレベルがよく見えてなかったのだと思いました。“上には上がいる”でもそういう人達と何としても肩を並べたい、いや、さらにその上をいきたい…俄然やる気と意欲が湧いてくるような不思議な感覚もありました。


To be continued…
 2006.7.21 S.Ishioka wrote
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